第29番「小仲坊」から「三重の滝」
この記録は、1300年前から変わらぬ「役行者道」に思いを馳せながら、千手の滝を目指しそして降りるという記録である。
なお、雰囲気を出すためにも、記録は「だ・である調」を意識する。普段の記録とは一風変わった語調により、文章作成の技術を磨くのも一つの目的だ。
開始地点は林道終点。
ここに車数台が停められるスペースが設けられている。
池原貯水池から、前鬼川沿いの林道を30分ほど上がったところに終点にはゲートがあり、そこから小仲坊までは林道を歩くことになる。
30分ほど林道を歩いただろうか、当時の面影を残す石垣が現れたと思えば、ほどなくすると突然に小仲坊は現れる。
そう、ここは前鬼集落跡。
1300年前に役行者から諭され、鬼から人間に変わった「前鬼」と「後鬼」。彼らがここに住み着き、修験者を受け入れる場所として、かつては栄えたとされる。
今では61代目となった当主のみが、ここ小仲坊を守っているという。要するに鬼の子孫だ。
本日の道のりは、そんな修験者たちが歩いたとされる道を行く。峠と谷を越えた先に、28番の三重の滝があるという。
隊長から地形とコースの予習を受けるが、本日の滝が気になって頭には数%しか情報は入ってはこない。
修行道に入る際、中から当主が声をかけてくれた。見た目はもちろん、その優しい口調も、とうてい鬼の子孫とは思えない。
それもそうだ、彼らの先祖は1300年前にはもう、人間としての人生を歩み始めている。
修行の道と言うだけあり、作りこまれすぎない、程よい整い方をしている。
時折赤テープは見受けられるが、崩れかけた旧道には注意したい。
道を間違うと、地形図を確認して谷を上がる羽目に合うからだ。GPSは用意しておいた方が無難だろう。
上がる谷は一本間違えたが、一つ目のチェックポイントである「閼伽坂峠」に出る。
実に難解な字をしているが、閼伽坂の閼伽は「aqua(水)」から来ているとの話も。
あくまで噂だ。
かつて裏行場は女人禁制で、閼伽坂峠が女人結界だったとも言われる。
令和という時代に結界の効果は無く、もちろん女性も峠を降りることが可能だ。
閼伽坂峠から谷まで降りると、先ほど林道でお別れしたばかりの前鬼川の本流が現れる。
エメラルドグリーンが美しい、小型の淵だ。
かつての修験者が身を清めたとされるこの場所の名は、「垢離取場」。垢離(罪・穢れ)を落とす場所として、その名を残している。
白黒褐色の石も塩梅良く混ざり合い、得も言われぬ美しさで、水中を覗くものを楽しませる。
10m先も見えてしまいそうな透明度の水は、川底の景色さえ透き通らせるようだ。
あまりの透明度に、浮いているような錯覚すら見せる。
穢れを落とした後は、裏行場である三重の滝を目指す。
ほどなくして現れたのは「千手の滝」、中央に位置する落差60mの滝だ。
三重の滝というのは、三本の滝が連続することに由来する。
我々はこの滝を下りに来たのだ。
滝を目の前に右側の稜線を行くと、断崖に張り付いた道と思われし踏み後が現れる。いつのものか分からないような、おそらく修験者が残したとされる鎖もあった。
信用はならないがこの修験の道、鎖を使わずにいられないほどの巻き道だ。
それもそうだ、僕らは今60mの滝を巻いている。
滝の取りつきには、細くも力強く根付いた木を借りる。手首ほどの細さだが、心配になるような強度ではない。
こんな酷い勾配にすら根付く植物の強さを、今回ばかりはありがたく思う。
3mほど降りたこの場所は、足幅ほどのスペースのエリア。沢ヤはこれを「テラス」と呼ぶ。
どうしてこのスペースをそう呼べようか?
我ら初心者は、これをテラスと意地でも呼びたくない。
彼ら沢ヤは、現代の修験者達である。
安全確保をしているとはいえ、この場所に何十分も居座るには気が持ちそうに無い。
今こうしてみるだけで、みぞおち辺りがギョッとしてくる。
投げたロープを何とか下まで垂れさせる。もしも60mの長さに到達していなければ、我々は飛び込むか登り返すしか方法は無いからだ。
下で待つ仲間と、トランシーバーでロープの確認。
全力で遊んでいるのか、遊ぶために全力なのか、それとも修行か。とにかく安全への配慮を少しでも欠くわけにはいかないのだ。
そしていよいよ自分の番がくる。
先ほどまで恐怖で下も見れなかったが、取りつけば右手と足元に集中するのみ。
横を落ちる滝と同じく感じる重力、それを支えるロープの弾力、身体を叩く飛沫の音。
体と自然と行いが一体となった時、既に自分は集中の中。さっきまで見れなかった滝つぼも、簡単に見れるようになっていた。
とはいえここから終盤が危険なエリア。
地面までの距離が短くなり、ロープの自重が減ると必然的に懸垂下降の速度が上がるからだ。
足元に集中、手元に集中、くどい程に脳内で言い聞かせる。
地に足がつけば、さすがに安堵。
空中にぶら下がる数分間、連続の集中の糸が自動で切れる瞬間だ。
それにしてもこの千手の滝、末広がりで美しい。
最後に降りる仲間の姿を見送りながら思う。
1300年前に思いを馳せ、穢れを払い、滝にも打たれた。
帰りの垢離取場で、もう一度身を冷やし、今日の無事に礼を込めつつ下山した。