「人生後半の戦略書」という本が、今読むべき良書だった件③

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さて、次の章は、ちょっと宗教的な、信仰的な話になってくるのですが、これまたイメージしやすかったものでして、要約しながらまとめてみましょうか。

僕には信仰心ってのは無いんですが、初期仏教とかは脳筋なので割と好き。

ブッダ先生はね、「自分の人生を救えるのは自分だけよ?」って、脳筋先生なのよ。

それと、信仰が人にとっては良い影響をもたらすことくらいは、何となく想像がついている。

ともかく、宗教やスピリチュアル的なモノにはおおよそ興味が薄いワタクシなのですが、にしてもこの章からは学びがあったというか、許容範囲が増えるというか、、、。

面白かった章でもあるんで、見てみてくださいな。

目次

林住期(ヴァーナプラスタ)に入る

古代インドの教えでは、人間の一生を100歳までと考え、それぞれ25年ごと、4つのフェーズに区切られるという。

0-25歳25-50歳50-75歳75-100歳
学生期(がくしょうき)家住期(かじゅうき)林住期(りんじゅうき)遊行期(ゆぎょうき)
ブラフマチャリアガールハスティヤヴァーナプラスタサンニヤーサ

もちろん、100歳まで生きる事すら難しいですし、この年齢でキッパリ変わる、って訳じゃあないのですが、要するに、、、

人生のフェーズを意識せよ

って考えは、古代インドの教えにも共通するって事なんだな。

いわば、50歳~の第二次曲線の話にまとまってくる。

学生期・家住期は名前的にも分かりやすく、学業に励み、んでもって家庭のために働きなさい、ってフェーズだ。

じゃあ林住期(ヴァーナプラスタ)ってのはなんだ?

林住期(ヴァーナプラスタ)

これをサンスクリット語で直訳すると、まさかの字のごとく。

「森林に(林)」「隠遁する(住)」ことを意味する

のだそう。

おいおい、森の中に隠居しなさいってか??

ただ、意味合いとしては幾分マイルドになりまして、解釈としては

過去の公私の義務からきっぱり手を引き、精神性と深い知識、結晶性知能、教育、進行にいっそう専念する。

って感じらしい。

今までこの本が説いてきたことと、年齢も考えも一致しますわな。

もっと端的に言えば、

50歳を目安に人生の目標を見直しなよ。

って感じかな。

で、これを超えると75歳、人生最後、〆のフェーズに入る。

遊行期(サンニヤーサ)

ただ悟りを開くことに没頭する。

うーん、、、

僕は瞑想やら自己解釈的なモノが好きなので、まあ割とピンとくるのですが、、、これは中々に難易度が高そうな印象。

悟りって、やっぱり最終段階なのね。

まあでも言わんとしていることは良く分かりまして、人生の晩年に自分のあり方だとか、(頑固とは別な意味合いで)人に惑わされない生き方が出来ている人ってのは、穏やかで不幸が少なそうなのは見て取れる。

あれを悟りとするならば、確かに目指したいところではあるかな。

人と自分を知り尽くし、穏やかな爺さんになりたいわな。

ただこれ、やっぱりなのですが、林住期をしっかり通過しなければ、遊行期(悟り)に到達することは無いんだと。

当然だよね。

いつまでも学生気分でいるのは論外(学生期のまま)。

過去のキャリアにしがみつき、人生の後半で現在の自分を悲観するようでもいけない(林住期に移れない)。

林住期にスムーズに移り、今の自分や今後の自分を見直し、あり方を変え、適応し、自分を知ることで、最終的に悟りに至れるんだと。

人は人生終盤で信仰心が増加する

なぜか、人は人生の晩年ほどに、信仰心が増加するんだと。

これは意外だわな。

これは何も、悪いこだわりとか、頑ななバイアスが宗教に固着していくから、って意味では無く、歳を取るごとに許容力が増すからなんだと。

次の一分に関しては、本書をまるまる切り抜きますね。

年を重ねるにつれ、人生は割り切れないことだらけだと気づき始めます。そうなると、宗教のあいまいさと矛盾を許容できるようになり、進行や精神性(それが子供時代からの信仰であろうとなかろうと)のすばらしさ、超越性が分かるようになるのだと。

へぇー、そりゃ僕にも信仰心が増す可能性だってあるわな。

僕なりに解釈するなら、晩年にかけた信仰心の向上ってのは、決して固執・洗脳・バイアス・習慣的なものとは限らず、むしろ「許容」「成長」「気づき」みたいなポジティブな解釈ができるんじゃあなかろうか?

これなら、悪い宗教で無いのであれば、これはアリなのかもしれないとすら思う。

科学!統計!論文!がベースの僕だって、ポジティブにスピれるかもって事だ。

ちなみにこの論は、1970~1980年代に発見された解釈らしいけど、現在の調査(本書執筆2023年)でも同じことが認められたとか。

でもって、信仰が好きとか嫌いとか置いといて、僕が「信仰心ってむしろアリじゃね?」って思ったのがこれ。

信仰心があると幸福らしい

宗教や精神性を重んじる成人は、信仰を持たない人よりも、おおむね幸福でうつ病になりにくい事を示す研究が山ほどあるんだとか。

信仰によって幸福が増すのなら、そりゃあ信仰したほうが良いに決まってるwww

そのほか、宗教とアルコール依存の低さ、とかもあるらしいのな。

日本に限らず?かもですが、とりあえず日本の話で考えると、宗教ってのは「麻原彰晃」とか「統一教会」とか、何かとブラックな側面ばかりイメージしがち。

考えてもみたら、何となくな宗教への悪いイメージってのは、自分たちの偏見や知識不足によるものがほとんどな気がする。

別にそう頑なにならずとも、シンプルに構えりゃいいって事なのかも。

①人生の晩年には自然と信仰心が増す

②その理由は「許容力」が増えるというポジティブな理由

③信仰心がある人は幸福でうつ症状が低い

もし、僕たち私たちが、人生の晩年で信仰心に目覚め始めたら、何も心配することも無く、何も恥ずかしがることも無く、自然に、自分が感じる方へ、信仰心を高めていってもいいのかもしれない。

逆説的ではありますがこれは、信仰心を高めるべきだと、科学的に証明されたという事。

つまりは、信仰するという事は科学的に正しいと、、、

これはもう、科学を信じていると言っても過言ではなかろう。

別に「哲学」でも良い

おもしろいのがここからの解釈で、必ずしも「信仰心」じゃなくてもいいらしいんだな。

先に触れた「許容力が増える」ってのは、「宗教の曖昧な側面」に対してだったけれど、重要なのはこの「曖昧さ」のようなものに対して、らしい。

いわば「超越的なもの」

と言われている。

だから、哲学でもイイんだ。

人は暇だったり、一人でいると、「反芻思考」といってさ、自分のネガティブ思考のループに入ったり、悩み過ぎたり、小さなことから抜け出せなくなったりするんだよ。

まあ、それを認知行動療法とかで改善していくんだけど、、、

宗教とか哲学ってのは、そういう「反芻思考」や「ネガティブループ」みたいなものから抜け出す、気持ちをリセットさせるような効果があるんだと。

宗教が健康に良い理由として、礼拝堂に集まったり、習慣がセットされやすいという側面で解釈させることはできるんだけども、そこで結論づけさせるより、自分というものを含め、世界も超越し、もっとふんわりデカい視点から俯瞰しようぜ。

みたいな感じかな?

本書には無かったけど、何かで聞いた事。

人は畏敬のあるもの(デカいもの、力及ばないもの、自然など)や、デカすぎるものに触れる、想像するとストレスが減り、幸福度や満足度が上がり、好奇心が刺激されたりするんだと。

これは、自分より圧倒的に大きいもの、理解しきれないものに触れることで、「自分の悩みの占有率」が下がるからなんだとか。

だから、山頂からの景色とか、宇宙を想像したりとか、歴史とか芸術でもイイんだと。

僕なりの解釈だけど、宗教が体に良い、メンタルに良いとされるのって、こういう事だよな?

畏敬とはちょっと違うけど、「超越的なもの」と解釈するなら、きっと同じな気がする。

バッハの話を勝手に解釈

ここはマジで勝手に解釈しますが、バッハの話を本書でまた使っていたのですが

バッハは晩年幸福だったのは先に触れた。で、バッハは作曲の時、自分が作曲したのではなく、それは「神から授かった曲」であり、自分はその代弁者に過ぎないという考えだったんだそうな。で、バッハは神を愛し、神のために作曲し、幸福だったと。

これをマジで勝手に解釈する。

バッハを想像するに、ものすごく満足そうな気がしない??

神に仕え、神を敬い、自分は神の役に立っているような気がしてならない、そんな中で作曲するのは、さぞ幸福だったろうなと思うんだ。

これをもっと身近なイメージで例えると、、、

犬が飼い主に忠実に尻尾を振っている。

上手に奥さんの手のひらで転がされている、いや、、、好きで転がっている状態。

これに近しいんじゃね??って思うの。

制御できない犬より、飼い主の言う事を聞ける犬の方が幸せとか言うじゃん?

バッハは好きで神に信仰し、その信仰している自分を愛していたんだと思うな。

そう考えると、信仰って悪くないよな、って僕は思える。

まあただ、本書がアメリカ出身の著者ってのがあるので、日本人の我らにどのくらい信仰心が芽生えるのか?

については疑問があるところではあるが、、、。

仏教は神や信仰じゃなく、努力だからね、、、www

であれば、芸術か、畏敬か、哲学か、、、

自分の悩みや小さな世界に固執するのものでなければ、何でもイイのかもしれませんね。

宗教に寛容であれ

本書で例に挙げた話が長かったので、割愛しつつ勝手な言葉で翻訳しますが、、、

人生の晩年に、信仰心ってのが自分の心に芽生えた時、困惑したり隠そうとする心が、障壁になり得るんだとな。

せっかく「健康」「幸福」に近づける信仰心が芽生えるのに、だ。

皆さんの想像にたやすいように、「宗教の悪いイメージ」「なんか恥ずかしい」「人からどう見られるか、、、」って、なりそうな予感はする。

これは宗教だけじゃあなくてさ、芸術でも、瞑想でも、「なんかスピってない??」と、逆張りしたくなる気持ちだとか、やっぱ恥ずかしいような気がしてならない。

まア、容易に想像がつくわさ。

で、これは今までの人生において、「反宗教」を提唱していたり、「無宗教」をポリシーにしていたりすると、信仰心へ乗り移るのが困難になるんだと。

そりゃあ、バカにしていたことを自分がやろうとするんだから、抵抗するわ。

「無宗教(none)」というのは、仏教徒やキリスト教徒と同じくらい、強力なアイデンティティになってしまっているんだと。

ここで僕が思うのは、信仰心だけじゃあなく、色んなモノゴトに対し、否定するのは危険じゃね?

って事。

あなたはせっかく晩年に信仰心が芽生えるかもしれないのに、「宗教とか怖いわ、イメージ悪いわ」と言ってきたせいで、動けなくなる。

貴方も人を愛する日が来るかもなのに、「愛を語るのってクサくね?」

君も瞑想の良さに気が付くかもしれないのに、「瞑想ってスピってね?」

芸術の良さが分かる日が来るかもしれないのに、「芸術とか一生分からんわ」

なんというかまあ、気持ちは分かるが、あんまり否定するのはよそうぜ?

将来の可能性を、自ら潰しているようなもんだわな。

どうしても理解できなかった場合、僕が提唱しているのはこれで、「今の自分には分からない、けど未来は分からないケドね」

可能性を残しつつ、今興味の無い事は、自然に置いておくだけ。

僕だって昔は言っていました。

「登山とか何が良いのかわからない」

って。

人生のうち、価値観なんて変わっていくのが当たり前なのだから、変わる自分を許せるスペースを残しておこうか。

具体的な行動

じゃあ、何をしましょうか。という、この章の最終フェーズ。

これは長々話しても、まあやる人は稀でしょうでww。さらっと行きます。

今まさに、キャリアの後半って人は、行動してくれるかも!

時間を作る事

瞑想だとか、信仰だとかは、やっぱり時間がかかるものらしい。

確かに、キリストのミサとか、仏説阿弥陀経とかもある程度時間かかるわな。

その時間は、ちゃんと確保しなされ、と。

もちろん、家住期の皆さんは毎日が忙しいと思うけど、林住期に近い方達は、生活に取り入れていってもいいと思うんだ。

何かと言い訳付けて、「忙しいから」と言い続けていたら、第二の曲線には乗れませんよ、と。

歩きなさい

超越に踏み入るには、歩くのが手っ取り早いと。

この書では、思いのほか「サンティアゴ巡礼」を歩いたことが紹介されていまして、「歩行瞑想」だとか「繰り返しの運動(歩行)」の効果だとか、「自然との対話」みたいな事にフォーカスしていました。

歩くのはいいぞ。

「感謝の散歩」とかいう、まさに片岡鶴太郎みたいな事も言っている。

だがこれをバカにしてはいけない。

科学的にも良いと証明されているのだからっ!

僕は林住期にもう一度、サンティアゴ巡礼の道を歩くつもり。

アイデンティティを決めるな

これはさっき言ったやつだね。

特に信仰に対する姿勢は、年齢と共に変化することが多いらしいので、あんま固執しなさんな。

ってことだね。


これは価値観全部、ゆとりをもって考えた方が良さそう!

さて、最後はまとめ。

ここまで長かったね。よく頑張って読んでくれました。

次は短く、簡潔なので、あとちょっとです!

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